ムク木コラム
木のみ木のまま

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 「いいもの連合家基都(かきつ)」の発足
平成20年2月
山川元志

またしても「ひとくち餃子」問題。おそらく結論は輸入食品監視強化で終わるだろう。金がかかり、税金の負担が増える。
「食べものぐらい身近で調達調理した方が安全でおいしい!」というのは都会人には酷な話かな。思えば何でもお金で処理する大都会の生活そのものが異常なのだと思う。

現代の医(衣でなく)食住の根本問題を考えると、現代の私達のほとんどが被害者であるとともに加害者であることに気づきぶちあたる。だから簡単に他者を告発できないのだ。
だからこそいいものを少しずつ「知り・使い・拡げる試み」に多くの人が参加できる仕組みが欲しい。そういった考えから「いいもの連合家基都(かきつ)」は発足した。良い結果が拡がるには、どうしたらよいか私たちは模索している。 いいもの連合家基都グループは、そんな問題をテーマに掲げ、どうやってゆけばよいか、迷い苦しむ集団である。

日本人で始めての宇宙飛行士で、マスコミというエリート職をやめ、山村の農業についた秋山さん。「1人の宇宙飛行士を宇宙に送るお金があったら、1万人の小学生に農業体験を!」という彼の考えには賛成したい。
縄文時代からわずか数千年の間に、人口は飛躍的に増え、豊かな生活を享受する人々も増えた。しかし一方では化学物質の増大、飽食、エネルギーの浪費、窮屈なルールの増大が、思いもよらない問題と不幸を、地球と私達個人にもたらしつつある。
そこでもう一度原点に立ち返り、本当に必要なもの、シンプルな生活に役立つ生活用品を考え、生活の有様すべてを同憂の士と一緒に原点から考えていければ楽しい。
そんな気持ちでこのグループは出来た。

「行きついた文明社会を縄文時代という原点から見つめ直したい」しかし単純に古(いにしえ)に戻ることはできないし、現代社会では常識とされるすべてを見つめ直さないと、原点を探ることにはならない。しかし歴史の原点的なイメージは大いに役立つ、そんな思いにふさわしい名前として少し恐れ多い「家基都」という名前を付けた。

家基都(かきつ)とは
 「家基都(かきつ)」というのは縄文時代の日本国の首都名で、富士山北麓にあったと「富士古文書」に記されている。(「幻の富士古文書」渡辺長義より)
 「富士古文書」は富士吉田の浅間神社の宮司である宮下家の土蔵倉中に保管されていた。そのため「宮下文書」ともいう。書写しまとめられた渡辺長義さんの考証では、「家基都」が出来た時代は紀元前2600年頃という。
 中心となる原書は、紀元前217年秦国から渡来し土着した秦徐福が、既に富士北麓に土着していた日本創世記の人々の係累と出来事を記録しまとめた「徐福12史談」とされる。徐福は不二山日向高地峰の高天原に住む古老の人々の口碑、口談、口講、伝言、各々の覚え書き(神代文字)を集め合わせ、持ち込んだ和紙に漢文で書いたとされる。整理しまとめたのは徐福より7代目の秦福寿と思われる。
 この書はその後人皇38代天智10年(671)に、中臣、藤原物部麻呂が一部書き替え写した。
 参:「蘇我(そが)武部(もののべ)両家之世代尾、人皇八代孝元天皇御代依利(より)   作正志(つくりだだし)、是仁宇津須(これにうつす)」
 さらに建久三壬子年(1192)8月に、阿祖山太神宮の宮司 宮下源太夫義仁がこれを写した。
 阿祖山神社を引き継いだ富士浅間神社の宮司、宮下家は代々熱田神社の尾張家と婚姻を結ぶ家柄であった。阿祖山神社そのものは864年、溶岩流のため埋没している。
 書によると、
 日本国の始まりは、中国の震旦国、黄帝の時代に、黄帝(1男)の父、炎帝神農氏と黄帝の弟、5男と7男がそれぞれ500人と700人の集団で日本に渡来し、それぞれ淡路島と富士山北麓に定住し、その後統合し冨士山北麓が中心となる。
 彼らは雑穀栽培と文字を最初に日本に持ち込んだ人々でもある。富士北麓を居住地として選んだのは、大原あり、火あり、湯泉あり、草の実あり、木の実も多く、湖水もあって住み良き場所と判断したことがあげれる。当初住居はすべて岩穴なので、岩穴も多くここは適地だった。
 古代史というと、支配者の権力争いが主で庶民の暮らしが見えないものが大半である。それらに比しこの書では、日本創世記の衣食住などの暮らしぶりも簡潔に書かれている。仲間の誰かが発明した生活の知恵と工夫を、船をつかって諸国(日本各地)へ伝達し、そしてまた諸国で考え出された工夫を家基都へ持ち帰るなど、知恵の交流が図られ、当時の助け合い社会が彷彿とさせられる。またこの書の記述は具体的かつ記録的である。文字を始めて日本に持ち込んだ人々なので、、地名の由来、人と物の名、人の係累、主な出来事を何とか残したいという一念が伝わる。驚くべき事にこの書では、日本神話の神々が血縁を明確にした実在の人々として登場する。恐らく日本神話の元になった原書と思われる。
 日本神話で日本国の始祖とされる、天照大御神(あまてらすおおみかみ)こと大日留女尊(幼名大市日女)は、伊座凪尊(田仁知日子)と白山日女(伊座波尊)の1女で、日本の東州(富士山北麓)と西州(淡路島)の血筋を引く両親から生まれた。
 伊座凪尊は、東州に移住した国佐槌尊(神農氏7男)の5男で知勇に優れていた。また白山日女は、西州に移住した国常立尊(神農氏5男)の1女で、悪神(悪人のこと)を説得し良民を愛すること兄弟子供を愛するがごとし、という人物像が記されている。この2人が婚姻を結ぶことによって、東州と西州が統合され、最初に生まれたのが大日留女尊(天照大御神)で、地神1代、つまり日本国の始祖となる。最初の国名は「豊阿始原瑞穂国」である。首都は富士山北麓の「家基都」である。
 富士山北麓の家基都時代は約69年間続き、大日留女尊から5代目の時代に、震旦国舜帝有虞(うぐ)の筑紫への侵攻を防ぐために、筑紫島(九州)に遷都される。その後、初代宇茅葺不合尊から51代弥真都男王尊まで、筑紫の高千穂が首都となる。富士北麓は天社の地として残る。
 弥真都男王尊の時代、紀伊国の長脛彦の反乱を防ぐため東征が行わるが、皇太子の五瀬王命は戦死、父も戦禍の中伊勢で病死、そのため皇太子となっていた第四皇子の佐野王が諸国に呼びかけ、四道より攻め上り、近畿の乱を鎮圧する。長脛彦は津軽に逃亡する。こうして筑紫の日向高千穂宮より山表(やまと)へ遷都が行われ、佐野王は大和朝廷の初代となり、神武天皇と呼ばれる。
富士古文書は文字を知る三十六神戸と呼ばれる最も古い神社の人々が歴史を記録し、古代部分は徐福が集大成したものとされる。そのためにその後隠蔽をはかる時の権力から数々の弾圧を受け、消失したものも多く、かろうじて残されたのが「宮下文書」である。
 中国の震旦国から最初に日本にやって来た一団はどこから来た人々か、それについてもふれられている。天竺震旦国と呼ばれ、初代から15代の名前が記され、その15代目が神農氏で、初代は天之御中主神とされる。この人々は雑穀を始め、酒を始めてつくり、塩をつくったことが記されている。日本に渡来した炎帝神農氏は、天都より大昊伏義氏が夫人共々大陸の中原にやってきて炎帝神農氏を産んだ、と記されているので15代の1派なのかも知れない。
 その昔、紀元前3000年前、インダス地方ではシュメール人の高度な都市文明があったが、忽然と無くなったという。恐らく温暖化に伴う氷河融解の洪水で滅んだ可能性が高い。彼らは自分たちの国のことを「キエンギ(葦原之中津国)」と呼んでいたというが、それは偶然なのか、きしくも富士古文書が記す日本最初の国名「豊阿始原瑞穂国」と同じである。遠くシルクロードからからはるばるやって来た、雑穀栽培を始めた天之御中主神一族(姓はアマ)は中国で震旦国をつくり、その一派は自然に恵まれた日本で安住の地を得た。蘇我馬子の時代、紀元後600年の遣隋使による記録で、当時の倭王は自らの姓を阿毎(アマ)と呼んでいると隋書に記されている。現代天皇に姓は無い言われるが、少なくとも当時の倭王にはあてはまらなかった。

 現在、国のことを私達は「国家」と呼ぶ。何故国に家の字がつくのか。考えてみると不思議である。豊阿始原瑞穂国の首都は「家基都」と書くが、家基都という文字は、「国家」という「大きな家」の基となる都と読める。文字を日本に持ち込んだ人々の国家観は「助け合いをする大きな家族」そんな意味合いではなかったか、少なくとも私にはそんな風に感じる。
  

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